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ROCK DIARY 2017年3月 3ページ目

ロックなんて、ダサいって時代は現在もある程度存在するのです



現代のビルボードチャートを見てもわかるとおりいまはROCKなんぞ存在しない時代になっているのです。バンド演奏自体が必要とされなくなり打ち込みさえあればサウンドは可能な時代でもありROCKなんてバンド演奏なんてダサいって時代になっています。そういうことを僕はわかります。と言うか、時代にあったサウンドをつくらないかぎり次のROCKシーンも成立しないんです。しかしながら、アーティストやミュージシャンはMODEを進化させもっともっと面白いパフォーマンスも要求されてもいるんですね!しかしながら、ROCKっていつのどの時代もかっこいいものじゃなければなりません!今にはいまのかっこよさがあり、いまのかっこいいとはなんなのかを捉えていなければすぐに現役ではなくて古いものになりかねないのです


1980年代のダサいバブル景気の背景と大意




1980年代はバブル景気にむかってすすんでいたと言う経緯があってROCKなんぞもうすでに古い!という捉え方が多かった。1979年に上京した僕であったが、実際にこの時代(80年代)を20代で突っ走るにはいささか厳しい状況にあった。美容師などという見え透いたなんちゃってお洒落さんの中にあってROCK好きなんぞ肩身のせまい思いを強いられたのは確かだ。かっこいいってなに?ROCKの表現を追求するというのはなかなか80年代は厳しかったわけだ





ROCKって?



メイクアップへの興味は13歳の時でした。すでにグラムロックに興味を持ち始めていた僕は見よう見まねで自分の顔をデビッドボウイの顔にしてみたり、ミックジャガーのメイクをしてみたりしていました。メイクの教科書はミュージックライフでした。1973年頃って新しいROCKが目白押しに次々紹介されていた頃で13歳の僕にはどれこれもミュージシャンのファッションの虜になっていきました。とりわけ手っ取り早いのが自分の顔をメイクすることでした。実家が化粧品も扱っている薬局でしたので倉庫にいけば大量の使用しなくなっていたメイク用品が山ほどあり使いたい放題だったわけです。だからといってこの時点で僕はメイキャップアーティストに憧れたなんて微塵もございません。ROCKって?なんだのひとつだったことは言うまでもありませんでした


BIBAがROCK



1970年代、東北の過疎地の小さな町の中学生の男の子が女性のファッションブランドに興味をもつなんて、いま思えばずいぶん飛んでる少年だった自分だと思うんですよ。女の子の洋服に興味をもったわけではなくブランドのロゴマークや写真のもつかっこいい雰囲気に興味をもったというのが実際の話ですね。BIBAはそういう意味でスィンギンロンドンの真っ只中にあったブランドだったから露出度も当時結構あったわけですね




ビバは1960年代から70年代のロンドンのファッションストアでした。 ビバは主に、夫のスティーブン・フィッツ・サイモンの助けを借りて、ポーランド生まれのバーバラ・ウラニーキーによって始まりました。

ROCKって?



オスカーワイルド

中学生の頃、オスカーワイルドのちりばめられた言葉に興奮したものだった。これってROCK!!のはじまりだったのではないかとさえ思ったものだ。ワイルドのヘアスタイル、ファッション、芸術における捉え方、文章の紡ぎ方、それら全てが思春期の僕を虜にした



  • 「男は人生を早く知りすぎるし、女は遅く知りすぎる」
  • 「男は愛する女の最初の男になる事を願い、女は愛する男の最後の女になる事を願う」
  • 「男の顔はその人の自伝であり、女の顔はその人の創作である」
  • 「紳士とは決して知らずに人を傷つけない人である」
  • 「流行とは、見るに堪えられないほど醜い外貌をしているので、六ヶ月ごとに変えなければならないのだ」
  • 「不平や不満は人間にとっても、国、国家にとっても進歩の第一段階である」
  • 「人間は不可能を信ずる事が出来るが、ありそうもない事を決して信ずることは出来ない」
  • 「外見で人を判断しないのは愚か者である」
  • 「ほとんどの人間は他人である。思考は誰かの意見、人生は物まね、そして情熱は引用である」
  • 「うわさになるより悪いのは、うわさされないことだけである」
  • 「ありふれた富は盗めるが真の富は盗めない。人の心の中にはだれにも奪えないとほうもなく尊いものがある」
  • 「知る価値があることで人に教わることができるものはひとつもない」
  • 「自分らしくあれ。ほかの人の席はすでに埋まっているのだから」



耽美的・退廃的・懐疑的だった19世紀末の文学の旗手のように語られる。多彩な文筆活動をしたが、男色を咎められて収監され、出獄後、失意から回復しないままに没した。

グラムロックの衝撃

マークボランは理想的なROCKだった!

グラムロックの衝撃を受けたのは小学校6年生の頃。メイク、ファッションすべてが僕に衝撃を与えた。音楽そのものよりも、むしろミュージシャンたちのメイクでありコスチュームだったんだ。デビッドボウイはもちろん僕にはマークボランでありTREXがもっとも衝撃を与えてくれた


ROCKって?



ROCK!!とはいったいなんなのでしょうね?幼少期からずっとそんなことを考えて50年以上も経過してしまいました。イメージが大切なんですよねイメージが。ROCKってなに?そのイメージをあらゆる角度から探ることが僕の人生なんだと思うのです。


パンクファッションにのめりこんでしまった10代の頃




パンクファッションに興味をもった10代の僕でした

73年頃の中学生の頃はデビッドボウイやイギーポップのヘアやファッション、メイクに興味をもっていた僕は16歳当時の高校生になるとヴィヴィアンとマルコムの出現によりすっかりパンクファッションに興味を持ち始めその虜になっていきました。アンダーグランドなそのUKの雰囲気に若い僕はくびったけになってしまったのでした。しかしパンクのサウンドじたいにのめりこむ事は実はそんなになかったというのが実際の話です。ベルベッドアンダーグランドやニューヨークドールズ、イギーポップはすでに聴いていたのですがセックスピストルズであったりダムドなどのサウンドにはそれほど興味はしめさなかったのです。それよりも、マルコムマクラーレンとヴィヴィアンウエストウッドのつくりあげるブティックのイメージであったりファッションの方向性の虜になっていた16歳の僕がいました


マルコムマクラーレンとヴィヴィアンに憧れた青年期



マルコムマクラーレン×ヴィヴィアンウエストウッド





1971年にマルコムマクラーレンはヴィヴィアンウエストウッドとともにファッションブティックであるLET IT ROCKをロンドンで開店しました。マルコムはNYでニューヨークドールズのマネージャーを務めた経験を生かしNYパンクをロンドンにもちこんだのです!ファッションブランドであるLET IT ROCK,また店名をSEXと変更しボンデージファッションを売りはじめたり、ロンドンのインディーズバンドだったストランドをドールズのようなパンクロックでプロデュースしジョニーロットンを参加させてセックスピストルズとしてデビューさせたり、パンクムーブメントを世界中に旋風を巻き起こすきっかけをつくりあげていきました。その後のファッションブランドであるセデショナリーズやワールドエンズなどは日本でもロックフリークスだけではなくファッションに興味をもつ人々に注目されていったのです。この頃僕は、74年頃は高校生になっていていち早くパンクファッションを自分なりにとりいれていったという経緯があります。僕の人生においてはこのマルコムとヴィヴィアンのつくりあげたスタイルは僕の青年期に深く刻まれた興味を惹くものであったことは言うまでもありません!


 

 


カウボーイやインディアンに憧れた幼少期



幼稚園に通ってる頃、カウボーイのスタイルやインディアンのファッションやアクセサリーなどに興味を惹かれました。かっこいいって思ってしまったんですね!無骨な男的なそのスタイルにはなんか男のロマンと言うか?そういうものを感じたんですよ



カウボーイの履いてるジーンズやパンツに憧れて以来、幼稚園の頃からジーンズ以外は履かないって決めたんですよね!ですからジーンズ歴はもう長いですね。1960年代70年代にかけては当時は日本製のジーンズを履いていて、エドウイン、ボブソン、バイソンなど定番的に履いてました。60年代後期から70年代はじめはストレートを履いて、小学校低学年からフレアのジーンズを履いて、小学校5年生くらいの頃はスリムジーンズやカラージーンズを履くようになってました



中学生になるとリーバイス、リー、ラングラーとジーンズ3大ブランドを知り、もうこの3つのブランド以外は履きたくないと思いました。1973年〜78年までの高校卒業するまではこの3大ブランドにお世話になりましたね



高校生の頃ってヤンキーブームだったのでもうとんでもなく吐き気がするほど気持ち悪かったですよ!リーゼントに眉毛を全部剃るような危険な友人がたくさんいました。ま、長いものには巻かれろって昔から言うじゃないですか?しかし、巻かれることなくヤンキーたちとは遊んだけど、そういうファッションにはいかなくてすみましたね!というか、大嫌いでしたねヤンキーファッションが。と言うのは、かっこ悪いじゃないですか?



1979年に上京するのですが、フランスのジーンズであるマリテ&フランソワジルボーのデザインのジーンズを知りました。青山にBALLショップができたりスーパーボールができて、後にアルカポネなるジーンズショップができました。代官山のハリウッドランチマーケットではスゥインガーのジーンズを輸入するなど輸入ジーンズに凝りはじめましたね!とは言ってもこの頃、古着ブームも到来していて、リーバイスの66や501の赤耳なども買いあさりましたね!しかし、1980年以降はデザイナーズブランド全盛を迎える事になり、ジーンズにTシャツとかって結構まずいんじゃない?ダサいんじゃない?やばいんじゃない?なんて時代が到来してしまい、僕はトップスだけワイズやコムデギャルソンを着てみたりしてパンツは常にジーンズでした!!しかしね、この頃、ブランド大好きな輩からは批難をあびていた20代前半でした!!そして80年代はROCKもヤバいんじゃない!ダサいんじゃない!なんて時代が到来していて、肩身狭かったけど、おまえらがダサいんだよって僕は心の中でマジで思ってました!グランジがでてくる80年代後半までつらかったわ

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